~戦国武将エピソード集~

 永禄十二年(一五六九年)、織田信長は伊勢(現在の三重県)の国司である北畠中納言具教(とものり)がいる大河内城を攻めた。

 数ヶ月が過ぎたが、城が堅牢なので少しも動じなかった。

 信長は織田掃部介(かもんのすけ=官職名)を使者にして、「私の次男、織田信雄を北畠具教の子である具房(ともふさ)の養子にして

、和平協定を結ぼう」と伝えさせたので、北畠具教は「それなら信長の子を人質にとるのと同じだ」と考えて和平を締結した。

 織田信長は岐阜に帰り、十二歳であった次男の茶箋丸(ちゃせんまる=織田信雄の幼名)に侍を多くひき連れさせて、伊勢に行かせた。

 茶箋丸は大河内に到着して、国司である北畠具教と対面し、船江(ふなえ)に落ち着いた。

 北畠具教は代を子の具房に譲り、三瀬(みつせ)という所に隠居した。

 しかし北畠具教が、なおも信長にそむく意志を持ち続けたので、信長は国司の家の者たちを味方につけて、天正四年(一五七六年)十一月二十五日、北畠具教を三瀬において殺害した。

 北畠具教の子、北畠具房は信雄(=茶箋丸)の養父なので殺さず河内に監禁していたが、天正十六年(一五八八年)に死去した。

 北畠家は初代の北畠親房からこの具房まで、十代に及んだそうだ。

 北畠具教の弟は南都東門院の住僧(寺院に住む僧)だったが、兄、具教が殺されたと聞いて、※南都(=興福寺)を出て伊賀(三重県西部)に赴き、還俗(げんぞく=一度出家したものが、再び俗人にかえること)して、北畠具親(ともちか)と名乗った。

 三瀬(みつせ)

、河股(かわまた)、多芸(たき)、小梨(おなし)ら諸士を仲間にし、兄の仇討ちしようとしたが、成果を上げることができなかった。中国地方に流れ落ちて、毛利家を頼って備後(広島県東部)の鞆(とも)に居着いた。

 北畠具親が挙兵したので、天正六年(一五七八年)に織田信雄の兵は波瀬城や峰城を攻め落とした。

 六呂木(むろぎ)、山副(やまぞい)、波多瀬(はだせ)三郎ら三人を生け捕りにしたので、「死罪にすべき」と評議されたが、、波多瀬三郎の容貌が世にも優れていたので、織田信雄は「助けよう」と言った。

 波多瀬三郎はこれを聞いて、「三人同じく生け捕りにされてたのだから、罪もまた同じだ。二人が殺されるのに私だけが助かるのでは面目がない。共に処刑して下さい」と言った。

 六呂木、山副の二人は、「我等は年老いていて惜しむべき身でもない。三郎は仰せに従いなさい」と勧めたが、三郎は聞き入れなかった。

 ついに三人ともが磔にされる時、三人は「主君のために命を捨てることは侍にとって思い出しても愉快なことであり、これにまさる面目はない」と言って、謡(うたい)を謡い、雑談したあと殺された。

 波多瀬三郎はこの時十五歳で、その士を惜しまぬ人はいなかったという。

 玉井新次郎という北畠具親に味方して織田信雄にそむいた者がいた。父の兵部少輔や母とともに神戸(かんべ=伊勢国の有力豪族である神戸氏が拠点としていた、三重県鈴鹿市神戸か?)に隠れていたところを捜し出されて、櫛田河原で磔にされた。

 処刑される時、兵部少輔は息子の新次郎を呼んで、「お前が今回、主君の仇を討って北畠家を再興しようと志したこと、まさに侍の本意(=本懐、本来あるべきさま)であり、私にとっても生涯最大の喜びだ」と言って、それから水が欲しいと頼んだ。そして父母子の三人で水杯(みずさがずき=二度と会えそうにない別れの時などに、酒のかわりに水をのみかわすこと)をかわした後、殺された。

 織田家の刑罰は、仁者(=なさけ心の深い人)の道からは外れたひどいものだった。こういう暴虐さのために、織田家の最期がよくなかったのは、当然のことなのである。

【南都】(広辞苑)

一、平城京すなわち奈良の称。平安京すなわち京都を北都または北京というのに対する。

二、

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,
,


、、奈良の興福寺の称。比叡山の延暦寺を北嶺というのに対する。

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